<連載短編小説>#もう一度レストランで|「いわくとえにし」角田光代
2022年9月20日 00:00
財布は見つからなかった。八万円もたいへんな痛手だが、クレジットカードや定期券を再発行する手続きが地獄めぐりのようだった。
それからだ、野乃実が洋食アポロではなく「いわく」とその店を勝手に呼ぶようになったのは。とうぜんながら店自体に罪はなく、事情も秘密もないが、自分にとっていわくつきの店にしか思えなくなったのである。
地方で暮らす父親が余命宣告を受けて入院したと、母から電話で聞いたとき、野乃実はあえて「いわく」でひとりワインを飲み、蟹クリームコロッケとグリーンサラダとナポリタンを食べた。悪いことはもう起きた、もう「いわく」は終わった、だから「いわく」落としだ、これ以上悪いことは起きないはずだと、論理がまちがっている気もしたが、捨てばちのようにそう思い、料理をひとりで食べてワインを飲んだ。気分は最悪なのに料理はどれもおいしかった。父は、余命三ヶ月と言われたのに、一年後に亡くなった。七か月長く生きてくれたことと、「いわく」落としが効いたのかどうか、野乃実には判断できなかった。それからもうすでに、五年が経過している。
その日は、同僚の理歩に誘われて、「いわく」にいくことになった。ほかの店にしないかと提案してみたが、「あの店のポテトサラダがどうしても食べたい」と理歩はゆずらない。そう言われてみれば、たしかに野乃実にも「いわく」のおいしい一品一品が恋しく思い出される。
赤いタータンチェックのテーブルクロスに、カトラリーと、たたまれたナプキンののった皿がセットされている。座ってメニュウを広げ、好き好きに注文してから、テーブルの隅にスマートフォンがあることに野乃実は気づいた。こちらに向けてある画面が、ぴかりと光ったからだ。LINEで何か受信したらしい。反射的にのぞきこむと、「今どこ?もう着く?」と吹き出しが告げている。
「これ、忘れものみたい」と野乃実は理歩に言い、「お店の人に渡す?」と理歩はスマホをのぞきこむ。「私はもう着いたからカルディでなんか見てる」とまた吹き出しが告げ、漫画のキャラクターがきょろきょろしているスタンプが送られてくる。「本人がすぐに取りにくるんじゃない?」と野乃実が言い、「それもそうだね」と理歩はうなずき、ワインが運ばれてきて、二人は乾杯をする。
ポテトサラダや茸ソースのオムレツや小海老のフリットなどが次々と運ばれてきて、とりわけて食べながら、理歩は「毎日が単調すぎてうんざりしていて、転職を考えている」という、けっこうシリアスな話をはじめたものの、テーブルの隅のスマートフォンが気になって、野乃実は話に集中できない。ワインをボトル半分ほど飲んだあたりで、またスマートフォンの画面が光り、つい野乃実は見てしまう。「なんかあった?」「だいじょうぶ?」と続けて送られてくる。ああもう、何やってんの持ち主。野乃実はいらいらと背後のドアを振り向き、だれか入ってこないか見てしまう。
それからしばらく眠っていたようなスマートフォンはまた目を覚まし、「なんで無視?」と文字を浮かび上がらせる。野乃実は思わずそれに手をのばし、つい返信しそうになるが、
「ちょっと何やってるの、他人のスマホだよ」理歩に言われて我に返り、
「だってなんか……」と、ひとりごとのようにつぶやく。スマホの持ち主とLINEの送り主の関係もわからないのに、彼らのあいだにひびが入ってしまうと、泣きたいような気持ちになる。この店が、持ち主の「いわく」になってしまったらどうしよう。
あたらしいワインと湯気を上げるグラタンが運ばれてきたとき、野乃実の背後でドアが開く音がする。「あのー、すみません、さっきここでスマホを……」という声が聞こえるやいなや、野乃実はスマートフォンを握って勢いよく立ち上がっている。「これ、これですよね、すぐ確認してください、光ってたから、すぐ連絡してください」と、ドアから半身を出している若い男性にスマートフォンを押しつける。礼を言って彼がドアの向こうに消えると、安堵のため息が漏れる。席に戻ると、野乃実のグラスにワインをつぎながら、
「ぜんぜん私の話聞いてなかったでしょ」と、理歩がにらむ。
「ごめんごめん、マジごめん」野乃実はすなおにあやまる。「なんかさ」ワインに口をつけて一口飲む。渋みがあって風味もあって、おいしかった。「ふつうに毎日がドラマチックだね」つい、思ったことを口に出す。「転職を考えてること自体、すでにもうドラマチックだよ」
この店で夕食を食べたから何かが起きたんじゃない、とはじめて野乃実は思う。私たちの日々は、何か起きることになっている。顔を上げられないくらいかなしいこと、飛び上がるくらいうれしいこと、何をしてもしなくても、そういうことは向こうからやってくる。今までもそうだったし、きっとこれかもそうに違いない。私たちにできることは、何かが起こらないようにすることではなくて、何か起きても、向こうから何がやってきても、へこたれないこと。ぺしゃんこにならないこと。なったとしても、またいつか、起き上がること。そう思っている自分に野乃実はびっくりする。はじめてひとりでここで食事をしてから、考えてみればもう十二年もたっている。
「もし仕事変わっても、ときどきこうしてごはんいっしょに食べてね」野乃実が言うと、
「なーんて、ずっと先まであんたと机並べてるかもだけど」理歩は笑って、グラスのワインを飲み干す。
あの人、名前も知らないあの若い人、LINEの相手に会えたかな。今日の失敗のことを、もう笑ってるかな。LINEの相手といつかここにごはんを食べにくるかな。そうしたら、この店はあの人にとって、いわくではなくてえにしだな。野乃実は酔いのまわりはじめた頭でふわふわと考えて、口元をほころばせる。
(撮影:垂見健吾)
角田光代かくた・みつよ
作家1967年生まれ1990年「幸福な遊戯」でデビュー。
それからだ、野乃実が洋食アポロではなく「いわく」とその店を勝手に呼ぶようになったのは。とうぜんながら店自体に罪はなく、事情も秘密もないが、自分にとっていわくつきの店にしか思えなくなったのである。
地方で暮らす父親が余命宣告を受けて入院したと、母から電話で聞いたとき、野乃実はあえて「いわく」でひとりワインを飲み、蟹クリームコロッケとグリーンサラダとナポリタンを食べた。悪いことはもう起きた、もう「いわく」は終わった、だから「いわく」落としだ、これ以上悪いことは起きないはずだと、論理がまちがっている気もしたが、捨てばちのようにそう思い、料理をひとりで食べてワインを飲んだ。気分は最悪なのに料理はどれもおいしかった。父は、余命三ヶ月と言われたのに、一年後に亡くなった。七か月長く生きてくれたことと、「いわく」落としが効いたのかどうか、野乃実には判断できなかった。それからもうすでに、五年が経過している。
その日は、同僚の理歩に誘われて、「いわく」にいくことになった。ほかの店にしないかと提案してみたが、「あの店のポテトサラダがどうしても食べたい」と理歩はゆずらない。そう言われてみれば、たしかに野乃実にも「いわく」のおいしい一品一品が恋しく思い出される。
赤いタータンチェックのテーブルクロスに、カトラリーと、たたまれたナプキンののった皿がセットされている。座ってメニュウを広げ、好き好きに注文してから、テーブルの隅にスマートフォンがあることに野乃実は気づいた。こちらに向けてある画面が、ぴかりと光ったからだ。LINEで何か受信したらしい。反射的にのぞきこむと、「今どこ?もう着く?」と吹き出しが告げている。
「これ、忘れものみたい」と野乃実は理歩に言い、「お店の人に渡す?」と理歩はスマホをのぞきこむ。「私はもう着いたからカルディでなんか見てる」とまた吹き出しが告げ、漫画のキャラクターがきょろきょろしているスタンプが送られてくる。「本人がすぐに取りにくるんじゃない?」と野乃実が言い、「それもそうだね」と理歩はうなずき、ワインが運ばれてきて、二人は乾杯をする。
ポテトサラダや茸ソースのオムレツや小海老のフリットなどが次々と運ばれてきて、とりわけて食べながら、理歩は「毎日が単調すぎてうんざりしていて、転職を考えている」という、けっこうシリアスな話をはじめたものの、テーブルの隅のスマートフォンが気になって、野乃実は話に集中できない。ワインをボトル半分ほど飲んだあたりで、またスマートフォンの画面が光り、つい野乃実は見てしまう。「なんかあった?」「だいじょうぶ?」と続けて送られてくる。ああもう、何やってんの持ち主。野乃実はいらいらと背後のドアを振り向き、だれか入ってこないか見てしまう。
それからしばらく眠っていたようなスマートフォンはまた目を覚まし、「なんで無視?」と文字を浮かび上がらせる。野乃実は思わずそれに手をのばし、つい返信しそうになるが、
「ちょっと何やってるの、他人のスマホだよ」理歩に言われて我に返り、
「だってなんか……」と、ひとりごとのようにつぶやく。スマホの持ち主とLINEの送り主の関係もわからないのに、彼らのあいだにひびが入ってしまうと、泣きたいような気持ちになる。この店が、持ち主の「いわく」になってしまったらどうしよう。
あたらしいワインと湯気を上げるグラタンが運ばれてきたとき、野乃実の背後でドアが開く音がする。「あのー、すみません、さっきここでスマホを……」という声が聞こえるやいなや、野乃実はスマートフォンを握って勢いよく立ち上がっている。「これ、これですよね、すぐ確認してください、光ってたから、すぐ連絡してください」と、ドアから半身を出している若い男性にスマートフォンを押しつける。礼を言って彼がドアの向こうに消えると、安堵のため息が漏れる。席に戻ると、野乃実のグラスにワインをつぎながら、
「ぜんぜん私の話聞いてなかったでしょ」と、理歩がにらむ。
「ごめんごめん、マジごめん」野乃実はすなおにあやまる。「なんかさ」ワインに口をつけて一口飲む。渋みがあって風味もあって、おいしかった。「ふつうに毎日がドラマチックだね」つい、思ったことを口に出す。「転職を考えてること自体、すでにもうドラマチックだよ」
この店で夕食を食べたから何かが起きたんじゃない、とはじめて野乃実は思う。私たちの日々は、何か起きることになっている。顔を上げられないくらいかなしいこと、飛び上がるくらいうれしいこと、何をしてもしなくても、そういうことは向こうからやってくる。今までもそうだったし、きっとこれかもそうに違いない。私たちにできることは、何かが起こらないようにすることではなくて、何か起きても、向こうから何がやってきても、へこたれないこと。ぺしゃんこにならないこと。なったとしても、またいつか、起き上がること。そう思っている自分に野乃実はびっくりする。はじめてひとりでここで食事をしてから、考えてみればもう十二年もたっている。
「もし仕事変わっても、ときどきこうしてごはんいっしょに食べてね」野乃実が言うと、
「なーんて、ずっと先まであんたと机並べてるかもだけど」理歩は笑って、グラスのワインを飲み干す。
あの人、名前も知らないあの若い人、LINEの相手に会えたかな。今日の失敗のことを、もう笑ってるかな。LINEの相手といつかここにごはんを食べにくるかな。そうしたら、この店はあの人にとって、いわくではなくてえにしだな。野乃実は酔いのまわりはじめた頭でふわふわと考えて、口元をほころばせる。
著者プロフィール
(撮影:垂見健吾)
角田光代かくた・みつよ
作家1967年生まれ1990年「幸福な遊戯」でデビュー。
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